前記事で羽織袴姿で本庶佑京大特別教授がノーベル賞授賞式に臨むようだと書きましたが、
その後ご立派な姿を見せてもらって喜んでました。
今回はその羽織袴について、
想うところをつらつらと、
いや、だらだらと、
心に浮かぶ想いのおもむくまま、
つれづれに書いてみます。
余談ですが、
自分は今まで「つらつらと」を誤用して来てます。
本来「つらつらと」とは、よく考えるとか深く考える、
といった意味なのだそうですが、
わたしは真逆の意味で捉えてきました。
おそらく徒然草の「つれづれ」に影響され、
「つらつらと」も「つれづれ」の同義語、或いは同類語だろうと、
勝手に思い込んでしまっていたのだろうと思います。
自分の無知さ加減を恥じ入る他なしです。
ただ、世の中にこの誤用が少なからず見受けられるようで、
わたしだけじゃないんだ、と胸をなでおろした次第です。
と、さり気なく弁解がましい一行を入れておこう。うん。(笑)
英語がペラペラだったようで、
アメリカにいる時、いつも羽織袴で街を闊歩していて、
珍しがられて人気者だったようです。
そんな彼がある時通りがかったアメリカ人に声をかけられた。
「お前は何ニーズだ(ジャパニーズかチャイニーズか)?」
天心、岡倉覚三は瞬時に切り返した。
「お前は何キーだ? ヤンキーか?ドンキーか?モンキーか?」
と。
声をかけたアメリカ人は言い返せず、
天心は悠々と街を闊歩した。
という逸話があるが細部に拘らなければ大体あってるはずだ。
そんな岡倉天心を見て弟子が真似して羽織袴を着ようとする。
それを天心は十年早いと叱りつけた。
アメリカ人よりもアメリカをよく理解できるようになってから初めて羽織袴を着ろと。
近代を理解できない未開人だから羽織袴なのだと思われないようにしろ、
近代を誰よりも理解するからこその羽織袴なんだと、
そう思わせろ、と。
ノーベル賞で羽織袴姿の本庶特別教授を見た時、
この、天心の弟子を諌める言葉を思い出したが、
天心がもし見ていたら、なんの文句もないだろう。
和魂洋才といったのは福沢諭吉だったか。
近代化、西洋化を追うあまり、
手段が目的になってしまって、
魂まで西洋風になってしまってはいけないが、
逆にただ闇雲に日本の伝統や文化を大切にしたって意味がない。
世界に羽織袴を日本の文化です、どうですかいいでしょう?
と出していっても馬鹿にされるだけかも知れない。
ちょうど韓国人がキムチを誇るように。
とか言うと、いかんのかな?(笑)
ただ、キムチは美味しいと思う。
日本風に味付けされたやつが口にあうな。
焼肉屋で食べるキムチは真っ赤で辛いのが合うな。
まあ、キムチより肉のほうが好きだけど。
焼けた肉をご飯に乗せてタレが白ごはんに染みる、
それをパクリとやるのが好きだったなあ。
今はコース料理みたいな感じに、
あとでご飯類を注文したりするのが普通なような。
あのね、それでですね、
オレは何を言おうとしていたのか、
そうだ、羽織袴。
岡倉天心が言ったのはこういうことだろう。
近代化、西洋化を目指し進む日本が、
それが出来なくて自分たちの伝統文化に回帰する、
落伍者の選択なき拠り所でしかない、
と欧米に思われるだろうと。
平たく言えば馬鹿にされるから止めとけということだ。
天心岡倉覚三は、
アメリカ人より英語を知っていて、
その上で羽織袴をチョイスしているのだ。
中身が大事だという話でした。
わたしは昔、
「形から入る人だね」
と言われたことがあって、
内心ムッとしたのですけれども、
素直に聞く耳持たねばと思うと同時に、
なんにも知らないでよく言えるわ、
上辺で判断するな!
とも思ったのです。
中身を見ないで判断するのはいけません。