dandelion-hill

タンポポの綿毛に息を吹きかけて 誰かに届けと書いてます

満開を逃して思うこと

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桜も散ってしまって、
今年は満開の見頃な散歩写真を撮れなかった。
今年は例年より開花が早かったとのこと。
桜の前の、狙いをつけていた梅も、
これは公園に咲いている盆栽みたいに背の低い小さい木なんですが、
多分近くに住む誰かが児童公園に植えた盆栽だろうと思うのですが、
これも満開を撮りそびれてしまった。

もたもたしているうちに時間が勝手にわたしをおいて足早に流れてゆく。
いつもの如く置いてきぼり。
残念やら悔しいやら。

花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。

と、徒然草に書いてあります。
桜は今を盛りと咲き誇る満開のときが、
月は少しの雲りもなく優しく輝いているときだけが、
美しいとして見るものであろうか。
いやそうではないぞ。
と言ってるように思うのですけれども。
まぁ満開は確かに美しいのだけれども、
硬い小さな蕾が日に日に大きくなっていく様子を見るのも、
また散った花びらがクルマのボンネットに落ちていたり、
あるいはまたタイヤの前後に落ちていたり、
走り出すと簡単に飛ばされてどこへゆくかもわからない、
あるいは踏みつけられて跡形もなくなってしまったり、
そんな儚い一片の花びらの辿るであろう侘しい運命も、
美しいとわたしは思う。

歩道と車道の境の縁石の段差の下に、
吹き寄せられて肩を寄せ合うように密集した、
たくさんの花びらたちも、
愛おしくなる。

そんな美意識を、
日本人に与えてくれたのが、
冒頭に書いた徒然草の言葉なんじゃないだろうか。
冒頭ではないな。
中程かな。

未完の美と、盛りを過ぎて衰えてゆくものの美。
この美意識はわびさびの心に通ずるものがあると思う。
この、兼好法師が書いたとされる徒然草と、
わびさびというものと、
どっちが先にあったのか、
そこまで調べる気は起こらないのだが。

人間、
優しくないといけないなぁと、
思うのです。
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