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タンポポの綿毛に息を吹きかけて 誰かに届けと書いてます

神戸 大倉山公園

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これ、なんだと思いますか? 画像
何かに似てませんか? 全体像は、 画像
こんな感じ。 神戸の大倉山公園と言うところにある、 昔、伊藤博文銅像が立っていた、 その台座なのです。 今はもう銅像はないんですけれども。 戦時中の金属供出でね。 で、この台座を設計した人の愛弟子が、 この台座のデザインを取り入れて国会議事堂を設計したそうです。 そう聞けばなるほど似てるなと思います。 わたしは初めて見たのですが、 重厚感がいっぱいでした。 台座の前に説明文の書かれたものがあったので、 写真にとってOCRでテキスト化しといたので、 それを転載します。
大倉山と伊藤博文像台座 「我庵は茅浄の海原池に見て波の淡路は庭の築山」  明治の大実業家大倉喜八郎は、安養寺山(今の大倉山公園)からの眺望をこう詠みました。大倉喜八郎は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し、一代で大 倉財閥を築いた人物です。大倉喜八郎日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地 を買い取り、広大な別荘を建てました。当時の安養寺山は松の木が繁り、瀬戸内海や淡路島が望めたそうです. しかし、この景勝地に建てた別荘に、大倉喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であり、初代兵庫県知事を務めた伊藤博文が、「昼夜涼風吹不断、神戸第一の眺望且避署地に有之」と専ら利用していました。  その伊藤博文が1909年(明治42年)ハルピンで射殺されたのを契機に大倉喜八郎は、伊藤博文が愛したこの地に彼の飼像を建て、公園として市民に開放する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付しました。ニ年後の1911年(明治44年)10月銅像 が建造され、大倉山公園が開園しました。 銅像は、伊藤博文フロックコートを着用し、自身が起草の中心となった帝国憲法草案を手にするもので、高さ十尺(3.03m)ありました。台座は、京都大学初代建築学科教授の武田五一の設計によるもので、台座上部の形状は階段状ピラミッドがあしらわれています。台座のデザインは、国会議事堂中央部分と類似していますが、これは武田五一の愛弟子である吉武東里らが師匠のデザインを取り入れて国会議事堂を設計したためといわれています。銅像は、第ニ次世界大戦中に金属供出され、現在では銅像の台座と大倉山の名 称が当時を偲ばせています。                                                    神戸市
かつての初代内閣総理大臣でありまた初代兵庫県知事でもあった伊藤博文銅像がここにあったのだと知り、またその台座が国会議事堂のデザインに取り入れられているのだと知ると、 なにかにわかには立ち去り難いものがあった。 日露戦争は弱小新興国家日本が世界の超大国ロシアに、 国の存亡をかけて戦いを挑んだ運命の一戦だった。 世界の誰も日本が勝つとは思わなかった。 その存亡をかけた一戦を前に伊藤博文は言った。  もし満州の野にあるわが陸軍が大陸から追いはらわれ、 わが海軍は対馬海峡でことごとく撃ち沈められ、 ロシア陸軍が海陸からわが国にせまったときには、 伊藤は身を士卒に伍して鉄砲をかついで、山陰道か九州海岸で、 博文の生命のあらんかぎりロシア軍を防ぎ、 敵兵は一歩たりとも日本の土地をふませぬという決心である。  昔、元寇の役の際、北条時宗は身を卒伍に落として敵と戦う意気を示した。 妻にも 『汝もわれとともに九州に来たれ。そうして粥をたいて兵士をねぎらえ』 と言った。 わしも、もしそのようになれば妻に命じて、 時宗の妻と同様に九州か山陰の海岸において、 粥をたいて兵士をねぎらえ、と言うであろう。 そうしてかく言う博文もにわかに鉄砲をかついでロシアの兵卒と戦うつもりじゃ。 かくまで自分は決心している。 この伊藤博文の熱い想いが、 わたしの胸にも沸き起こった。 何も出来もしないわたしではあるが。 この大倉山公園の写真を別のブログで纏めていますので、 よかったら覗いてみてくれたら嬉しいです。 http://eureka-001.hatenablog.com/entry/2018/10/24/013951 ぶらり 街中 撮り歩く。 大倉山公園
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