dandelion-hill

タンポポの綿毛に息を吹きかけて 誰かに届けと書いてます

同じ話しを繰り返す歳になってきた

歳を取ると人間同じことを繰り返し口にするようになるらしい。
そういうことを子供のころ父や母から聞いた覚えもあるし、
近所の大人たちもそう言っていた。

 

テレビやラジオでも何度となく耳にしてきたような気がする。
だから歳を取るとそれが普通だと思ってきた。
歳を取るにつれ新しいことに対応できなくなるのだろうと。
過去のことばかり語りだすのだろうと。

 

現にわたしも、親が繰り返し同じことを口にするのを
いささか辟易としながら聞いていたものだ。
それが何時やら子に指摘れる立場となった。

 

言う側にしてみればなんでもかんでも闇雲に
思い出話を繰り返してるわけでもなくて、
何か理由があるものだ。
その人にとって大切な思い出、出来事、
子に語り継ぎたいと思うこと。
例え明確にそんな意思がなくても、
繰り返すということはその人にとって何かしら重要であり、
出来たら知っておいて欲しいと、記憶にとどめておいてくれと、
意識の奥でそんな衝動がうごめいているのだろうと思う。

 

やがて去り行く身としては何かを残しておきたい、
確かにこの世に存在した痕跡を子や孫の記憶の中の片隅に、
刻んでおきたいからなのではないのかと思うようになった。
例えくだらない思い出話であっても。
そうなのだ、重要かどうかはあまり関係ない。
こんな関わりがあったのだと記憶に留めておいてほしいのだろう。

 

この世に生を受けた以上、なにかを残したい、
なにかを伝えたい、なにかの役割を担いたいと想うのは、
本人の意志を超越した殆ど本能ともいうべきものなのではないだろうか。

 

人はなんのために生まれてくるのだろう。
生きるとはどういうことだろう。

 

「自分という存在は、言語のあまたある可能性のうちのほんの一つを、
わずか八十年ほど過去から未来へと運ぶ単なるヴィークルつまり
運搬具にすぎない」

 

西部邁が言っていた。
多分それが一つの答えだろう。
自分は運搬具に徹すればいい。
懸命にバトンを渡せばいい。

 

親がかつて同じ話を始めたとき、
無下に断ち切ってしまったことを、
今は詫びたい。

 

もっともっと子や孫と、
語り合わなければならない。

 

最近の散歩写真です。

 

 

 

 

 




 

https://www.youtube.com/watch?v=JLQC3nL1y1A

 

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